英語嫌いの私が、どうして英語の通訳・翻訳業をするようになったのでしょう?(笑)

「英語が大好き」とか「帰国子女で既に英語ぺらぺら」、という皆さんには、恐らく私の体験記はあまり役に立ちません。御免なさい。

でも「今は英語大嫌いだけど、何とか喋れるようになりたい!」「将来国際的な仕事をしてみたい!」「英語なんかに負けてたまるか!」という皆さんには、多少役立つと思います。笑っちゃうような英語人生ですが、良かったら最後まで読んで下さい。

Contents

永堀宏美 英語学習顛末記

高校1年

何とか滑り込んだ神奈川県立柏陽高校は、当時理系に強い進学校で、英語が苦手な男子に囲まれちょっとほっとする。相変わらず英語の授業では教科書を訳せと言われても分からない、できない、文法とかなんじゃらほい?熟語とかって何さ?take outとtake onで後ろにつく前置詞が違うだけで意味が違うってなんじゃよ?覚えきれない、そんなの!と不貞腐れる日々。

発音もむちゃくちゃ、テストはいつも平均点スレスレでした。

高校2年

周りは少し受験モードに入り、英単語とか毎日暗記して披露する自慢げな連中が増える。でも単語なんてあんなに(7000語単語帳とか)覚えてどうすんの?大体覚えられるわけないし、と自分の怠慢を棚に上げ、英語嫌いは加速の一途を辿る。

ところが、ひょんなことから英語の歌が上手くてむちゃくちゃ発音も綺麗でぺらぺらで、しかも美人な同級生と仲良くなり、恰好良さに惹かれてちょっと真面目にリーディング音読や文法の暗記を始める。英作文の授業は大の苦手だったが、教科書の例文を丸暗記するとテストの点が稼げることに気づき、「勝ったらケーキを奢る」という友達との賭けで本気になる。

高校3年

志望校は慶應義塾大学法学部政治学科、将来は外交官か国連職員と決める。しかし、文系志望のくせに英語は相変わらず出来ない。とにかく単語を詰め込み、英作文例文を暗記し、文法問題集を片っ端からこなすしかない。

だが、初年度の受験は滑り止めも含め、全滅!ちゃらら~♪英語の偏差値は60止まり。

浪人時代

東京の予備校に入り、最初の模擬試験で驚愕の出来事―なんと、それまで足かせだった英語が突然偏差値70!どういうこっちゃ?!わからないけど、とにかく毎日単語100個を暗記して詰め込み、予備校仲間と毎朝互いに問題を出し合い、勝つと昼飯おごり、などの賭けを続ける。

リーディングの問題は相変わらず「勘」だけが頼り。でも「勘」が冴えてきた?気のせいか、読む速度は早くなっているような・・・。思い過ごしか?笑

偏差値は徐々に上がり、結局第一志望の慶應(上記)に合格!英語だけでなく、日本語の本も100冊以上読んだのが読解力向上に繋がったのかもしれない、と自己分析する。

大学1年

念願の学科に入り、国際関係のサークルにも入り意気揚々。

しかし、それは最初だけ。周囲は帰国子女とか、小学校の頃から英語やフランス語をやってきたとか、英語スピーチ○○杯優勝なんて連中ばかりだ~♪うそ~♪どうしよう~・・・。(-_-;)

仕方ない、とにかく英語を口にして、話倒すしかない!(冷や汗)

大学2~4年

英会話学校に行く金などない貧乏学生。しかも大学の英語の授業はリスニングのできる順からクラス分けゆえ、私ごときのレベルではネイティブ講師に巡り合えない。でも英語は上手くなりたい。

そこで英語をただで使える場を求め、横浜YMCAの国際会議をボランティアで手伝ったり、フィリピンの学生会議に派遣してもらったり、英国の青少年活動に日本代表団の一員として送り込んで貰ったり、と何とか「英語だけの環境」に飛び込む機会を作った。ブロークンながら、何とか通じる英語になってきたかな?

大学卒業前

国連の採用試験(ミッション)が来日し、書類選考を通り、2次試験に臨んだが、そこで衝撃が待っていた。

出された問題はたったの一文『現在の難民の諸問題について思うところを英語で論ぜよ』。解答用紙はノート一冊、白紙の25ページ。これ全てを英語で書け、と。

ヤラレタ、と思った。日本の大学を出たくらいでは歯が立たない。やはり大学院レベルで留学しないと駄目だ、と思い知る。

卒業後 就職

元外務大臣大来佐武郎氏の内外政策研究会及び日本国際問題研究所内の環太平洋協力日本委員会事務局に勤務。公用語が英語の国際会議の事務局で、全ての雑用を片言の英語を使い走りながらこなす日々を約2年半ほど送る。英語は大分喋れるようにはなったが、書くのは相変わらず、全然だめ。

大学院へ

退職して、筑波大学大学院修士課程地域研究科に進学。国連職員を目指し、開発経済学と国際問題を学びながら、留学に備えることにした。

この頃からNHKラジオ講座の英会話とビジネス英語を聴いていた。

修論の執筆時点で指導教官と協議の結果、留学試験(奨学金)に挑戦することになる。

結果は合格。しかし、英語の出来があまりに酷く、試験官を非常に不安にさせたらしい。

留学

米国コーネル大学大学院へ留学が決まる。しかしTOEFLは最後まで600点は越えないまま渡米。学期前の留学生用の英語クラスでは得意のスピーキングで何とか切り抜ける。

だが、大学院の授業は甘くなかった。最初から、教授が何を言っているかさっぱりわからず、宿題や課題が出たことも理解できず、頭がくらくら。その上、寝ないで仕上げたエッセイ(毎日出る、分量はA4用紙にダブルスペースで2枚半程度)は「全く分からないから採点できない」と教授に付き返される。奨学金による留学ゆえ、成績でB以下は強制退学。何とかやるしかない。

そこで、英語学の博士課程の学生に泣きついて指導してもらったり、エッセイ・ライティングの授業を何度も取ったりして凌いだ。

暗く長い3年間だった。最後に英語で修士論文を仕上げ、長女を出産して帰国。

帰国後

まずは国際協力の仕事に就こうとしたが、うまくいかず挫折。サラリーマンである夫の勤務地・茨城県の北のはずれ(道の向こうは福島県)で子育てしながら将来を模索する。

留学やこれまでの経験から、日本人が地球上で生きていくためにはグローバル教育が必要と考え、英語を使って地球人を育てるプログラムを考え、長女の保育園で「英会話教室」として実施させてもらう。これが今の研修講師業の土台となっている。

通訳学校へ

帰国直後に英検1級を受けるが見事に落ちる。会場に居た小学生(帰国子女)が合格したニュースに大きなショックを受ける。

その後、ご縁あって市長の通訳をお引き受けする。公的場面の通訳をするならちゃんと勉強しないと!と思い、仙台の通訳学校に通い始めた(通学片道4時間)。

通訳コースに入るには点数イマイチだったらしいが、そこは熱意で何とか入れてもらい、英語の通訳&翻訳の勉強の仕方を学ぶ。そして、いかに自分は英語が出来ないかを思い知る。生徒はみな社会人なのに一日5~7時間も英語ばっかり勉強してくる!来るところを間違えたか!?しかし、今更後には引けない!やるしかないのだ!

英語修行時代

英語はとにかく時間を掛けて学ぶしかないものだ、とようやく気づく。

たまに長時間勉強するより毎日15分が最も効果的と気づき、NHKラジオ英会話、ビジネス英語講座を毎日聴き、予習復習、単語暗記を繰り返す。

子育ての合間(この間に2女の母となる)の勉強は細切れ時間しかないが、それが却って集中力に繋がった!?

この頃、近所の工業団地にある会社の技術通訳を務めたり、某通訳学校で初級クラスを教えたりするようになり、通訳で初めてちゃんと稼げるようになる。

通訳にあたっては、英語力の足りなさをコミュニケーション力でカバーすべく、作業服で機械の下に技術者と一緒に潜り込んだり、材料倉庫に一緒に籠ったり、当時メインだったファックス送信文の翻訳も期限を一晩以内と自分で決めて必死に取り組んだ。子育て中の主婦に仕事をさせてくれるのだから(子供は肝心な時に熱を出して母の予定をいつも滅茶苦茶にする生き物です)、これくらい頑張らないと罰が当たる!と思い、無我夢中だった。

もしかすると英語力よりそっちを買われたのか、その後もお陰様で依頼が続き、通訳や翻訳の仕事をしながらそれ自体が非常に良い勉強にもなると言う、大変有難い日々を送る。

余談ながら、その頃のエピソードをひとつ。当時保育園に通っていた長女が夕方既に帰宅後にクライアントから電話あり、「工場の機械が故障してどうにもならず、修理の為に国際電話を掛けるからすぐに来てくれ」と。余程緊急なことと分かって居ても、長女をいまさら預ける先がない。正直にそう伝えると、なんと工場長自らが「ぼくがお嬢ちゃんを見てるから。連れてきていいから、来て!」と(^^ゞ

最初は遠慮していたものの、電話向こうの切羽詰まった様子に、ここはお言葉に甘えよう、と覚悟を決め、長女の背中にお人形さんを負ぶわせ、小さいおにぎり握ったのをポケットに入れさせて、愛車で駆け付けた。

すると、たまたま就業後に残っていた受付の若い女性陣と工場長が私の背中から長女をほいっと抱き上げて、現場に向かう背を笑顔で押してくれた。

待ち構えていた技術者と一緒に機械の下に潜ってそこから国際電話で逐次通訳して、なんとか事なきを得て戻った私に、長女は頂いたお菓子やジュースに満面の笑みで、「もう帰るの?」と名残惜しそう。なんてやつ~♪

こんなに温かい方々に恵まれたこと、そして英語の勉強の甲斐あってお役に立てて本当に良かった、と心から思った。いまでも思い出す度に感謝の念が込上げる、有難い修行の日々だった。

また、知人から翻訳を薦められ、次女がお腹に居る間に仕上げて出版に至る。

エンパワーメントの鍵』クリスト・ノーデン・パワーズ著、吉田新一郎・永堀宏美 共訳、実務教育出版社、2000年刊。

転勤で県南地方へ

夫の転勤で茨城県南地方へ移動。都内まで通勤圏になるが、幼子を抱えて居てなかなか遠出は出来ない。自ずと英語の勉強はNHKラジオ講座中心の自宅学習のみになるが、とにかく日々続けた。

再び英検1級合格を目標に設定し、再受験するが、またしても落ちる。悔しい!

自己流の勉強では駄目だと思い、近所に「茅ヶ崎式英語会」という勉強会があるのを知り、入会する。週に1度、単語のテストと英語ニュースの書き取り、スピーチなどのレッスンを2年ほど受ける。

そして、2007年夏、遂に英検1級合格!

長い道のりだった。

*詳細は「英検一級合格体験記」を参照